木型の歴史

 鋳物は今から6~7千年前、エジプトに始まり、日本ではすでに神代の昔より有る。奈良朝時代

 

平天15年大仏鋳造の詔勅が下り、奈良の東大寺に重量600瓲と称せられる青銅の大仏が13年

 

2ヶ月もかかって鋳造されて、其の温容を昭和の現在に到る迄も保持されて居り、比の技術は

 

1212年前、聖武天皇の御字の事である。

 

 川口の鋳物は775年前の鎌倉時代建久年間、宋人某が技を伝えたとも、人皇97代光明天皇の

 

御代、歴王年間に河内の国(大阪府)円南部より天命国家の後胤が移住し来って、鍋・釜要

 

物工に生型鋳造を教授したとも伝えられている。 明治初年には米人キンゴ氏が来朝し、川口

 

住の鋳物工に生型鋳造を教授したという。

 

木型製作の始まりは、此の辺から発達したものと思われる。それより先江戸時代末期、浦和土

 

にて農業を営む島崎又五郎の三男として出生した菊造は、先来手先が器用でまじめなところ

 

から大工職人となり、よく働いていた。同業者や近隣の評判もよく、菊大工の愛称で通っていた。

 

ところが、明治20年頃、大工仕事で丸木の調材作業中、誤って手斧で足首を深く切り込み、傷口

 

治療が芳しくなかったことが因で不自由の身になった。そのため大工仕事は思うように出来な

 

なったので、菊造は立居振舞せず座った儘で何か大工に出来るものはないかと思案に暮れて

 

た。川口で鋳物屋が木型を使っ鋳造製品を造る話を聞き、又当時の川口の鋳物屋では鋳物

 

の親父自からが木型を造っていた事、又出入りの域は知り合の大工に頼んで木型を造ってい

 

て、専門の木型製造をする人はいなかった事を知って、菊造自から数件の鋳物屋に出入りした。

 

自ら鋳物用木型の製法を案出し、明治35年川口殿裏(現金山町1番地)に移住し、作業所を開き

 

弟子14~15人を抱えて川口地区で最初の鋳物用木型の製造業を始めた。

 

初期には、下水網、金庫の枠、土蔵の鍵、扉類の鋳造木型を製造したが、それに加えて橋の

 

摺、建築用金物の木型が多くなった。明治40年~45年頃にかけて、菊造の弟子が相次いで独

 

し、川口地区の木型製業造が4軒に増えた。この頃に到り、鋳鉄期の製品を圧倒し、機械木型

 

日用品鋳物木型が中心となってきた。大正6~7年頃には菊造系統の親方から独立営業するも

 

のも17事業所に増えてきた。

 

関東大震災の影響はこの業種にも打撃を与え、それまで菊造系統の木型製造業者が川口地

 

区には君臨していたが、震災を契機に、東京、神奈川方面から同業者が入ってきて、若干同

 

者間の競争も見られたが、発展の契機ともなった。土着の菊造系統を引く同業者にて東京木

 

組合支部が大正10年頃結成されたが、大震災又風水害に遭って潰れた事業所もあり、活動

 

止の止むなきに到り、一時解散した。

 

その後、時代の移り変りに伴い業界の活動形態も変り、きょうの川口市に於ける木型製造業者

 

の系統は、菊造の系統を引くものと、震災後移住したグループと、第二次大戦後に木型業を始

 

たものと、大きく三つの系統に分けられる。

 

 (川口木型工業協同組合 記念誌より)